人生が変わる瞬間(とき)


2007/10/09 山上

 

これは今年の24時間テレビのテーマでありました。
>社員の皆様は見ていましたでしょうか?欽ちゃんのマラソンも感動しましたが、やはり、
それぞれの人の、さまざまな人生が変わった瞬間を見て、考えるものがありました。
自分はまだ38年しか生きてはいませんが、人生が変わった瞬間はどこだったのだろうかと・・・。

今回のコラムは、その瞬間(とき)を、
その瞬間の自分の気持ちと、その頃のとても恥ずかしい写真とともに、
赤裸々に皆さんに語ってみたいと思います。
(すみません、今回も1年前の旅日記に続き長文です。懲りずに付き合って下さい)

その1. 「この世に誕生した瞬間」  – 0歳 –

こればかりは当時の自分の気持ちを話す事ができないため、母から聞いている話です。
生まれた赤ちゃんは必ず黄疸というものが起こるのは皆さん知っていると思います。
(新生児の生理学的な特徴で、肝機能がまだ未熟だかららしい)
黄疸は通常問題ないものですが、私の場合は違っていたようで・・・。

泣きもしない、母乳も吸わないという異変に気づいた時には重症黄疸と診断され、産婦人科でも、市内の総合病院でも、ほぼ助からないと言われたそうです。それを言われた時の親の気持ちは、今、痛いほどわかります。そんな時に出会った医師が ”高木”医師。

個人病院の先生でしたが、名医で最後まで諦めず治療をしてくれたそうです。病気は奇跡的?に回復、まさしく、高木医師との出会いは「人生が変わる瞬間」でした。その24年後、私は妻と出会い、そして結婚しました。妻の旧姓が”高木”というのは、単なる偶然なのでしょうか・・・。

#生き延びた男のその後

その2. 「娘が誕生した瞬間」 - 26歳 –

#あぁ~、娘よ。

娘が生まれた日は、忘れもしない東京出張中で、
尚且つ徹夜勤務をしていた日でした。
徹夜明けの朝、義母から生まれたとの連絡があり、
嬉しくて嬉しくて、急いで航空券を取りに行った事を思い出します。
私を父親にしてくれてありがとう!と思った瞬間でした。

でも血のつながりとは不思議なものですね。
初めて見たガラス越しには大勢の赤ちゃんがいるのに、一発で自分の子を指差せるのですから。時が経ち、今、娘は私を馬鹿にしながら大きく逞しく成長しています(泣)

ちなみに、
息子が生まれた時は特に湧き上がる感情はなかったなあ・・・ごめん息子よ。

その3. 「人生を見失った瞬間」 - 32歳 –

6年前の9月、父が他界。(今年は七回忌でした)命あるものは必ず死に、いずれ別れがくると思っている私は、父の死を以外とすんなり受け入れたように思います。

父の葬儀が終わって2週間がたった頃でしょうか。
娘の体に異変がおきました。
無数の紫斑(内出血状態)が吹き出ています。
何が娘の体に起きているのか、さっぱりわからず病院へ行くと、
病名は初めて聞く「突発性血小板減少性紫斑病」というものでした。
(どんな病気かは、以前にプレゼンでお話しさせて頂きました)

娘の入院治療生活が旭川で始まりました。
妻は実家から病院へ通うために旭川へ移住、両家の祖母も交代で付き添い、
私も当時勤めていた会社を1ヵ月間休職するなどして、娘が、孫がなんとか1日でも早く
良くなるよう、退院できるよう全員が必死だった気がします。

娘は雪が融け始めた3月、無事南幌へ帰ってきてくれました。
本当に嬉しかった。
そんな想いを知ってか知らずか、娘は私を馬鹿にしながら・・・(もういいかそれは)

#父の死、娘の看病を終えた頃の自分。
かなり、太ってきて醜い。
体調が悪くなってきたのもこの頃。
この一ヶ月後、救急車で運ばれることになる・・・

やっと一段落したと思った矢先、今度は私の入院生活が始まりました。
「急性膵炎」を起こしてしまった為です。
「急性膵炎」は順調に回復していき、1ヵ月もしないうちに退院できる予定でした。
ところが、退院間際になり医師が変な事を言うのです。
「膵臓はいいのですが、肝臓にあるものがねぇ・・・」
なんの事かサッパリの私に突きつけられたのは、癌ができているという事実。
ショックでした。
大袈裟ではなく、何かが崩れ落ちる感じがしました。
馬鹿げていますが、私は十代の頃から人生におけるビジョンを持って生活してきました。

★24歳で結婚
⇒ なんとか達成しました(今思えば、もう少し遊んでおけばよかった)
★26歳で子持ち、そして最初は女の子
⇒ なんとか達成しました(女の子は神のみぞ知るだったが・・・)
★28歳で家を買う
⇒ なんとか達成しました(しかしローン地獄・・・)
★娘とはいつまでも風呂に入る
⇒ 娘が小4になって拒否された(泣)
★娘が成人になっても腕を組んでデート
⇒ 小六では実現!成人は無理か?(でも、まだ希望が・・・)
★50歳にて孫を抱く
⇒ 娘を嫁にいかせたくないが仕方ない(自分次第か・・・)
★夫婦二人っきりになったら日本一週旅行
⇒ 熟年離婚してなければ(可能性大)

等等。
ここまで、そんな馬鹿げたビジョンをがんばって一部を除きクリアしてきたのです。
娘とお風呂、お風呂、いつまでもお風呂・・・娘めーーー! あっ、いかんいかん。 話を戻して、

でも、この先のビジョンを、目標をクリアしていけないかもしれない・・・。
親の死は受け入れても、自分の死は簡単に受け入れられない・・・情けない。

精神的に落ち込みながらも、無事手術が終わり退院できたのは夏真っ盛りの8月でした。
その後、なんとか会社に復帰すると、ある決断を迫られる事になりました。
勤めていた拠点が今年度で閉鎖されるというのです。
なんでこんな事が続くのか・・・。
合併先の札幌拠点か、今在籍している会社の東京本社か、退職か・・・散々悩んだ挙句、
先の見えない不安を抱えたまま12年勤めた会社を退職しました。
しかし、この退職という選択が私の人生をまた変える事になるのです。

その4. 「ある人物と出会った瞬間」 - 33歳 –

再就職先は思っていたよりも簡単に決まりました。
偶然にも従兄弟が勤めている会社(知らなかった)に履歴書を送り、
履歴書を見た従兄弟が、私が怪しい人物ではない事を経営者に伝えてくれていたためだ。
癌の手術後、本格的な社会復帰、第二の社会人生活が始まりました。
早速、得意?のC言語開発のプロジェクトの話があるので、
面接を受けて欲しいとの事で、面接を受けに行く事に。

そこである人物と出会います。そうです。齋藤社長です。

第一印象は、「こ、怖すぎる・・・復帰早々、この人の下で仕事するのか???」。
(・・・社長・・・すみません・・・)

なんとか面接で合格をもらいプロジェクトに参加する事になりました。
合格したからには久々の業務、絶対に病気を克服し、
崩れかけた生活を立て直すんだという意気込みで作業をしたのを憶えています。

しかし、その想いが強すぎて自分を見失っていたのかもしれません。
ある時、社長は打ち合わせでの私の言動に対し、こう指摘したのです。
「自分勝手で周りをきちんと見ていない」
その指摘は的確でした。
言われた時はカーッとなったのを憶えていますが、
その指摘が自分を見つめなおすキッカケになったのです。

その後の自分の取った行動が良かったのか悪かったのかはわかりませんが、
私がプロジェクトを抜ける時、幸運にもテイクへの入社の道が開けました。
そして、プロジェクト終了の半年後、入社することになったのです。
そのお陰で、今、私は素晴らしい仲間達と出会い、仕事をしています。
社長との出会いが、あの一言がなければ今頃私はどうなっていたのでしょうか・・・。

#手術を終え、再就職直前の頃の自分。
心身ともにリフレッシュするために
家族で九州旅行した時の1枚。(場所は桜島)
この数週間後、社長と出会う事になる。

以上の事が、私の今までの「人生が変わる瞬間」だったと思っています。

社員の皆さんにもこれまで「人生が変わる瞬間」があったと思います。
いや、まだまだ若い皆さんは、きっとこれからもそういう瞬間がやってくるでしょう。
私にも、まだまだこれから、いろんな出来事が、これでもか、これでもかと起こると思います。

それが、良い出来事なのか悪い出来事なのかはわかりませんが、
きっと、起きる事には意味があると思います。

自分の人生において絶対に必要な事と思えば、どんな辛い事でも乗り越えていけると
私は思っています。
皆さんはどう思いますでしょうか・・・。

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